◆◆東北における山岳信仰の歴史◆◆
旧石器時代を経て、新石器時代には縄文式土器の使用が始まり、狩猟、漁労、採集を主としていました。その後、弥生時代に入ると弥生式土器が使用され、稲作が始まります。東北においては紀元前後と云われます。稲作文化は日本文化の基礎と言えるもので、山川草木(さんせんそうもく)、日月星辰(にちげつせいしん)、鳥獣虫蛇(ちょうじゅうちゅうだ)など森羅万象を悉く神とし崇めます。日本古来の自然崇拝がこうして生まれたと思われ、古神道はこの自然崇拝から発しています。
出羽三山においては、月山の残雪が豊かな水となって平野を潤し豊穣をもたらしたことも、山麓に暮らす人々の月山への信仰を育んだとも言えましょう。
◆◆羽黒修験道の開祖・能除仙◆◆
開祖・能除仙(のうじょせん)(蜂子皇子と云われる)は難行・苦行を積まれ、羽黒の阿古屋において観音の霊像を感得しました。
霊仏の出現した大杉の下に居を占め、木の葉を綴って衣服とし、木の実、草の葉を食として禅居すること三年余り、「能除一切苦(のうじょいっさいく)」を説く般若心経を唱えるだけで、出羽国司をはじめ諸人の病悩・苦患を救ったところから「能除仙」と呼ばれ尊崇されたと云われます。
◆◆ 712(和銅5)年に出羽国が建国◆◆
当時すでに、月山、羽黒山、鳥海山は国津神として、この地に前々から住む人々から深い信仰を受けていました。朝廷もその信仰を見過ごせず、月山と鳥海山に名神大、羽黒山に名神小の待遇を与えます。
鳥海山は山麓住民が神威を汚す行為をすると怒って山が噴火するという異変をもたらすとみられ、月山は国家守護の霊神と仰がれたことによると思われます。
◆◆東北仏教と出羽三山に大きな影響を与えた德一と安慧◆◆
德一(とくいち)は天台宗の教説を鋭く批判し、伝教大師最澄と激しい論争を行い、弘法大師空海の密教に疑問を呈した法相宗の学僧で、初め筑波山にいましたが、のちに会津に移って恵日寺を建立しました。徳一は常に山を歩き、山を開いては山中に寺を建てて住み、粗食に甘んじて厳しい修行をしたと云われます。羽黒山にも入山したとの言い伝えがあります。
安慧(あんね)は天台宗の名僧で、真言密教に劣ると言われていた天台密教を大成し、真言密教を超える勢いをもたらした人物です。846(承和13)年に出羽国の国分寺に講師として派遣され国分寺の住職となりました。その後天台宗の僧が出羽国の講師や国分寺の僧になることが続き、南都六宗に代わり天台宗、真言宗が東北地方特に出羽国に広まり信仰されるようになりました。
◆◆修験道の成立◆◆
徳一と安慧は、いずれも山中での厳しい修行を行いました。僧侶が山に入って修行することは、既に奈良時代から始まっており、道鏡の師である玄昉(げんぼう)、そして道鏡も葛城山に籠り修行しました。こうして奈良時代に始まった山岳修行から日本固有の山岳信仰が発展し、道教や陰陽道と融合して修験道が成立しました。
◆◆修験道の隆盛◆◆
月山に徳一と安慧などの影響を受けた天台宗、真言宗、法相宗などの僧侶が登って修行をしたことが、大峰山、熊野山とは異なった風格を持つ一つの山岳信仰の集団が組織される基となりました。東北の厳しい自然と山岳での修行体験が継続され、大峰・熊野の修験道と出羽三山の修験道には宗教儀礼の上にも、教義の上にも大きな違いを生ずるに至りました。
◆◆羽黒山の修験者、慈恵大師を訪ねる◆◆
比叡山第18代の慈恵大師良源の伝記には、977(貞元2)年、羽黒山の修験者が、その門前で法螺貝を吹き、彼の験力に敬意を表したという話が記されています。10世紀頃には、羽黒山の山伏が都大路に出没するまでになっていたということでしょう。
◆◆出羽三山における葉山と湯殿山◆◆
中世の末に葉山の信仰が急速に衰え、かつその頃から湯殿山信仰が爆発的に伸び始めたため、葉山が脱落して湯殿山が三山の中に数えられ、かつ、奥の院という形をとるようになりました。湯殿山と品倉山との尾根の間に横たわる渓谷に熱湯が湧き出る巨岩が発見され、やがてこの熱湯の湧き出る巨岩を大日如来の宝窟と崇めるようになりました。父の胎内、母の胎内、姥神などと崇められ湯殿山信仰を盛り上げる要因となりました。
参考文献:戸川安章編「出羽三山と東北修験の研究」山岳宗教史研究叢書5
名著出版・1975
戸川安章「出羽修験の修行と生活」・1993
Cradle[クレードル]出羽庄内地域文化情報誌
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