密教の教理では即身成仏、すなわち修行して肉身のままで大日如来と一致する仏になることです。修験道では修験者が即身仏になるために、一千日から五千日に及んで五穀(米・麦・豆・ヒエ・粟)または十穀を断ち、山草や木の実だけの木喰行(もくじきぎょう)をして肉体の脂肪分を落としていきます。死期に近づいたことを悟ると、生きたまま土中の石室または穴に入り、錫(すず)を鳴らし仏の名を称えながら息絶えました。そして死後三年三カ月を経て取り出して、若干の手当てを施し、乾燥させて、それを即身仏として崇めます。 

   即身仏になることは、苦行を通して自らの罪や穢れを除くとともに、ききんや悪病に苦しむ衆生の難儀を代行して救済するために一身を捧げることなのです。

 


◆◆湯殿山信仰と即身仏◆◆

   江戸時代初期以降、湯殿山の一世行人の中には、「即身仏」になる人々が多く現れました。湯殿山系の即身仏は、エジプトのように死後の人工的な内臓摘出などの処置によるミイラとは本質的に異なります。生前から修行を積み重ね、自らの罪を除くと共に、飢餓や悪病に苦しむ衆生を救う為に一身を捧げることを、自身の意思によって選びとった道でした。

   この意味での即身仏が、数多く出現した山は、全国でも湯殿山のほかにはないと言われます。日本に現存する24体の即身仏のうち、6体が山形県庄内地方にあります。

   何故、湯殿山の一世行人の中だけこうした生き方、死に方、身体の残し方を選ぶ世界観が登場したのでしょうか。真言密教は、人間が大日如来の力により、生身の肉体のまま仏になることができると説いています。高野山では、弘法大師自身が奥の院に入定して、即身成仏を遂げたとの伝説を伝えています。 

 


◆◆鉄門海上人◆◆

  1768(明治5)年、鶴岡市に生まれ、俗名を砂田鉄といい、井戸を掘り、木流しの仕事をしていました。25歳で出家し、69世寛能和尚の弟子となり、空海の「海」と「鉄」の字を合わせ鉄門海となりました。

  その後、湯殿山仙人沢にて幾多の難行苦行に耐え、一心に仏の弟子として、空海の化身のごとく、加茂坂の隋道開削などの公益事業を数多く成し遂げました。また、江戸に出た時、流行していた眼病を治そうとし、自分の左目をえぐり取り、隅田川の竜神に捧げたというエピソードも残っています。

  鉄門海上人は弘法大師が62歳で即身仏になられたことに因んで、1892年に3千日の修行の末、見事に即身仏になられました。愛情豊かな上人であったそうです。


◆◆真如海上人◆◆

   1687(貞享4)年、旧朝日村越中山に生まれ、進藤仁佐衛門という農家の長男でした。家業をよく手伝っていましたが、ある日、山から材木を運搬中に3人の子供に頼まれ大そりに乗せたところ、一人の子供がそりの下敷きになり死んでしまいました。その子の弔いと、幼少より仏教に親しんでいたこともあり、迷う事なく大日坊に出家し一世行人となったのでした。

   20代より即身仏を志し、70余年の長い間、難行苦行を積み重ね1783(天明3)年折からの大飢餓に苦しむ衆生を哀れみ仙人沢に篭って、木食行を積み96歳で入定しました。人心を魅了する静かな心の持ち主だったようです。


◆◆本明海上人◆◆

   1623(元和9)年、武士として生まれ、俗名を富樫吉兵衛といいます。藩主酒井忠義公の病気全快祈願のため、湯殿山に詣でたことが出家のきっかけでした。湯殿山に於いて霊感を受け、行法を終えても下山しなかった為、藩主の怒りに触れ家族は追放、食録も没収となります。39歳のとき注連寺で剃髪し、その後も藩主の病気全快祈願を続けました。その甲斐あって全快した藩主は、吉兵衛の真意を悟り家族を召し抱え、本明寺の再興にも大いに賛助するに至ります。 

   1673年に即身仏になるべく即身仏堂を建立し、10年間の荒行を続け、1683年、61歳で入定し、33ヶ月後に信者により即身仏となったことが確かめられました。

庄内地方に現存する6躯の即身仏の中では最も古く損傷の少ない姿で残されていますが、それは上人の徹底した木食行の賜物であるといわれています。

(本明寺の即身仏を見るには事前にお寺に連絡が必要となります)


参考文献:あさひ村観光協会 パンフレット
畠山 弘「湯殿山と即身仏」爐の会•2001年

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